お知らせ

My boss history  第七話

向、淵上君の退任

橘百貨店の第五代社長で、初めての生え抜きであった向君が、専務の淵上君と退任した。

色々事情はあったようだが、これを聞いて、二人の御苦労さん会をやるべく、6月27日、急遽宮崎へ入った。向君、淵上君共、ファッション販売に携わる期間が永く、業界に詳しかった。当時西館を、地方にも台頭してきたDCブランドを一同に集結し、見事成功に収めた、最大の功労者である。私が退任してから、何人かの社長に仕えたが、もっと早く社長になっていたら、強い百貨店になっていたのにと、悔やまれる。

27日の夜は、吉井君がセッティングし、西橘譜庵倶楽部の幹部7名。久しぶりに宮崎日日新聞専務の三好氏も参加。話題は、向君の退任と百貨店の今後。

皆、開業以来の応援団だから気がかりなのだ。

向君達との食事会は翌日28日。向、淵上君とも普段と変わらず、陽気に酒のピッチが進んだ。やり残した事がいっぱいあるんだろうけど、何日か前に、百貨店がらみで、200名近い人達で、送別会をやって頂いたと聞く。両君共、売場のスタッフから慕われていたから、盛大な送別会だっただろうと想像する。だから今日は、何かふっきれたようであった。

向、淵上君、永い間本当に御苦労様でした。11月杉田君が定年で退任、その時に又来ます。その時、又逢いましょう。

 

畑中宣彦

つづく・・

 

 

 

2014年7月4日

My boss history  第六話

はまゆうコーラスのこと

私とはまゆうコーラスの出会いは、百貨店赴任直後、指揮者の中村先生が、ご挨拶に来られた事に始まる。私は、新しく百貨店を作りにきたと騒がれ、マスコミに度々登場した。その時、同志社グリークラブOB、という事も報道され、同志社OB、音楽関係者の訪問が多かった。

中村先生は旧姓三品さん、私が二回生の時、グリークラブの庶務マネに、その時先生は、京都女子大合唱団の指揮者として大活躍であった。私の二年先輩になる。

両クラブの交流は盛んで、先生に頼まれ、演奏会のチケットをさばいた事も何回かあった。

卒業以来の再開に話がはずみ、おかあさんコーラスの女王はまゆうコーラスの話になり、家内が宮崎に来たら、是非入会してほしいとの話になった。

私が宮崎に来たのは、橘百貨店の株主総会の前日5月12日。そこから住まい探しが始まったが、中々これといった物件に出会えず、不動産屋が、新たに社宅を建てる、という事になった。このため、家内と娘の宮崎入りは完成する8月末になった。

その頃、はまゆうコーラス等県内のおかあさんコーラスでのミニコンサートがあり、初めてはまゆうコーラスを家内と聞きに行き、中村先生を紹介し、その日から家内ははまゆうの一員となった。

家内は元々ピアノをやっていたのだが、金城学院へ行って、グリークラブに所属し、結婚して各地の赴任先のおかあさんコーラスに所属していたので、はまゆうの入会は自然の成り行きであった。

はまゆうは、当時100名位のメンバーで、音楽レベルが髙く、全国的にも一目おかれるコーラス団体であった。

家の近所に何名かのメンバーがいたので、家内がアッシーになっていた。その為、はまゆうに溶け込むのが早かった。

橘百貨店は、宮崎の目抜き通りにあり、はまゆうの練習会場に近いことで、当時、橘百貨店は、はまゆうのメンバーの溜まり場になった。

もちろん、百貨店の良い顧客になって頂いた。はまゆうコーラスの演奏活動は、宮崎だけでなくて、九州一円、全国にまでおよんだ。

声が良く出て、ハーモニーが絶妙、音楽レベルの髙さを実感していたが、曲に応じたパフォーマンスも、表現力が素晴らしく、何よりも、照れ、ためらいが無いプロ根性のすごさに、何時も圧倒され感動を頂いていた。

私達が宮崎を去る年、はまゆうコーラスはニューヨークのカーネギーホールのジャパンデーに出演した。この演奏旅行は、家内にとっても、何物にも替えがたい思い出になったようである。

宮崎を去った後も交流は続き、30周年演奏会には、宮崎まで出向いていた。

5年前の7月に家内は亡くなったが、葬儀には矢野さん、井上さんと、アッシーを務めたお友達も宮崎から来て頂いた。

中村先生と私との交流は、未だ続いている。はまゆう以外のコーラス団体の指導と宮崎県並びに宮崎市の芸術文化協会副会長、県合唱連盟副理事長の要職にあり、超御多忙のようである。

我が家にとって、はまゆうコーラスは宮崎で9年過ごした貴重な証となっている。

 

畑中宣彦

次回に続きます

HN-008
・はまゆうコーラス25周年演奏会

HN-010
・ニューヨーク公園の1スナップ

HN-011
・・ステージ衣装での妻 幸子

 

 

 

 

 

2014年6月12日

My boss history  第五話

交流の場の拡大

西橘譜庵倶楽部以外でも色々な会に参加したり、新たに会を作ったりした。

ある日、元西鉄ライオンズの剛腕投手だった稲尾さんが、読売新聞の髙井支局長とあいさつに来られた。訪問の意図は、ボーイズリーグの盛んな南九州で、何とかリトルリーグを作って欲しいと、今まで、宮崎でリトルリーグは作られた事はあるが、意外と経費がかかるので、永続きしなかったようだ。

少年野球に造詣の深い、菊池社長、野崎社長に相談したところ、是非やろう!バックアップするから、私が音頭をとって進めて欲しいと、早速中学1年~3年のシニアを発足、監督、コーチは、社会人野球で活躍した選手が多いNTT宮崎支店にお願いした。

後援会の会長は私で、事務局は野崎社長(野崎漬物)、年間100万円位運営費が必要のようで、年会費1万円で後援会企業100社を確保した。

熊本、福岡等、遠隔地での試合が多いので、野崎社長の会社のマイクロバスを運転手付で借用、これが運営を楽にする要因となった。最初は途中でタオルを投げたくなるような試合が多かったが、いつしか九州を代表して全国大会に出られるようになった。

同志社のOB会も積極的に参加した。県内に100名位OBがいるという事だったが、実際集まるのは30名位。前述の毎日新聞支局長、故片山健一君との最初の出逢いが、この会合であった。所在なげにしている光景が、いまでも思い出させる。

この会合で意気投合して、この後二人で積極的に同志社のアピールをしてきた。だから、街中で、見知らぬ人から、私の甥っ子も同志社です、と声をかけられる事が多かった。

学生時代、宮崎でグリークラブの演奏会をした時、運営にあたった人が何名もいて、「あの時は大変だったのよ」とよく云われた。グリークラブ出身という事は、会員に一目置かれ、執行部の仲間入りをする事になった。

ロータリークラブは、ジャスコの四日市店長時代、本部長命令で2年間入会した。出席の厳しさに辟易として、丁度、米国視察旅行があったのを契機に、退会させて頂いた。宮崎へ来てからも幾度となく入会のお誘いはあったが、やんわりとお断りした。ところがある日、商工会議所の副会頭から電話が入り、「四つ目のロータリーを作る事になったが、医者しか集まらない、アンタとこも商協調の根まわしが必要だろうから、是非入会するように」

新しい百貨店の面積確保で、未だ商協調の力はあった頃で、入会する事にした。

28名のチャーターメンバーで、宮崎中央ロータリークラブは市内4番のクラブとして発足した。私が宮崎を去る平成5年には会長に就任していた。期の途中で、会長職をおりる事になって、ご迷惑をおかけした事が、まだ思い出される。

 
畑中宣彦

次回に続きます。

HN-007
・故毎日新聞片山支局長の送別会
私と宮崎放送のアナウンサーで司会をした
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・リトルリーグ開設に尽力を賜った菊池社長(左)
宮崎時代大変お世話になった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2014年6月6日

My boss history  第四話

西橘譜庵倶楽部について

百貨店時代の事を語る時、西橘譜庵倶楽部の紹介は、絶対に欠かせない。

宮崎で10年弱仕事を続けてきたなかで、多くの友人と交流を深めたのも、その大半がこの倶楽部のメンバーであった。

赴任してしばらくたって、行きつけのスナック(らぶすとーん)の気の合う常連で、歌の好きな仲間が月に一度2時間程借りきって

歌合戦をしたのが始まりであった。西橘通り(宮崎最大の歓楽街)を愛し、歌を愛し、酒を愛する人の集まりであった。

それが、百貨店計画が段々と本格派し、メディアも報道が盛んになってくると、この倶楽部の性格が新しい百貨店の応援団のようになってきて、メンバーも100名を超えた。

メンバーは地元の中小企業の社長がメインで、金融機関、マスコミの支店長・支局長・官公庁の部課長で構成されていた。

新百貨店の外商の法人会員になって頂いたのは、勿論の事、倶楽部のメンバーから新しいお客様を紹介して頂くのが私の仕事であった。

倶楽部もメンバーが100名を超えると、集まる場所が、ホテルの宴会場に変わった。定期的会合は新年会ぐらいで、送別会、祝う会等随時行われた。

会長は、創設から私で、事務局は当時百貨店の渉外課長をしていた吉井秀樹君。

雰囲気的には、商工会議所、ロータリー、ライオンズ、青年会議所の合同会議のようで、運営する事務局は大変だったと思う。

今でもこの倶楽部は続いており、私が年に一度宮崎を訪れる時、当時の中枢だったメンバーが集まってくる。

私が宮崎で良い仕事が出来たのも、一重に倶楽部のメンバーがあったからこそであり、今でも感謝の気持ちは消えない。

毎年一回は宮崎を訪れるのも、その気持ちが強いからだと思う。

 
畑中宣彦

次回に続きます。

HN-005
西橘譜庵倶楽部
・西橘譜庵倶楽部の会員企業の落成会であいさつ。

 

 

 

 

2014年6月3日

“急募”★6月2日~越谷レイクタウン★

越谷レイクタウン“MORI”にあるショップで、緊急欠員が出ました。

今回は、早番のみでOKです。

6月2日から勤務できる方、ご連絡お待ちしております。

勤務日数もご相談下さい!!

詳細はこちらからご覧ください。

越谷レイクタウンMORIにあるショップです♪

2014年5月30日

 My boss history  第三話

女子力を引き出す

百貨店は、女性の多い職場だけに、男子社員は何かと気を使う事が多い。私は、百貨店時代、一日2回は売場巡回する事を常としていた。

売場は情報の宝庫である。何が売れているのか、何が売れていないのか、何故売れているのか、そんな会話をしている中で、売場の攻め方を一緒になって考え、結果、コミュニケーションが高まり、販売力を高める結果となった。

ある日、ある売場をぬかして売場巡回をしてしまった。たまたまそこのスタッフは、ヘアースタイルを変えたその日であった。後で、秘書に散々叱られた。秘書は本人からかなり恨み言を聞かされたのであろう。以後、そういう事のないよう、気をつけて売場巡回をした。ところが、バレンタインで同じへまをやってしまった。例年、120個~130個程頂く、秘書が1個づつ付箋をつけて、誰から頂いのかはっきりさせるのだが、ホワイトデーが過ぎた頃、「社長は私にだけお返しがない」との苦情を、間接的に聞いた。驚いて、秘書に確認すると、付箋がはずれたチョコが1個あったとか、それが彼女から頂いたものと推測、すぐあやまりに行った。

試行錯誤しながら、百貨店の完成を目指していたが、社員の団結力は強かった。 特に女子スタッフ。トレーナーの長の下に、各フロアからトレーナーを選出、この団結心が強く、ここが基点となって、各スタッフの接客訓練が行われ、販売力の向上につながった。全て女性で、男性を介在させなかったのが良かったようだ。トレーナー軍団は、男子社員からも、テナント社員からも一目おかれていた。彼女達を、とことん鍛えたのが、外部コンサルト会社であった。開業前から月に一回、東京から来て頂いた。一年以上に亘る特訓で、トレーナーの長は、コンサルの先生の秘蔵っ子のような存在となった。

後年、私が今の事業を興し、新入社員教育で、彼女と連絡を取り、彼女の会社をコーチに指名したのは、かつての百貨店時代の実績を、まのあたりにみてきたからである。

畑中宣彦

次回に続きます。

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・我が家で、外商部員の面々
百貨店から近い事もあって、よく百貨店の連中が我が家に遊びに来る事が多かった。

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・私の秘書の結婚式に家内も招待されて

 

 

 

2014年5月27日

My boss history  第二話

新百貨店開業 若者を集める

橘百貨店時代の十年弱は、ほとんど休みが取れない状態であった。土日出勤していると、平日は中々休みが取れないものだ。それでも仕事は、非常に楽しかった。百貨店開業準備中は、色々な交渉事に没頭。交渉が進捗せずに辛い日も続いたが、街の皆さんの新しい百貨店に対する期待感が、交渉事を進めるエネルギー源となった。

交渉事とは別に、百貨店開業前は、私自身が交友を深める期間でもあった。商工会議所、ロータリー、ライオンズ、青年会議所、県庁、市役所等々、身体が空くと積極的に訪問し、新百貨店のアピールをしたものだ。又、マスコミとの交流を深めたのもこの時。各社、新百貨店のデビューを、好意的にとらえて頂いて、非常にありがたかった。故毎日新聞片山元支局長は、私と同志社大の同輩で、宮崎赴任も同じ時期だった事もあり、特に親しくさせて頂いた。健康を害して、平成21年8月他界、非常に残念だった。

昭和63年5月、ようやく新百貨店が一年半の工事を終えて開業。これまでアプローチした多くの方々に、ご来店頂いた。特に、当時の県知事の松形氏は、よく立ち寄って頂いて、色々品揃えのアドバイスを頂戴した。地方にも台頭してきた、人気のDCブランドを集結したこともあって、百貨店では珍しく、若者の集いの場所となり、「ボン」「ボンタチ」の愛称で親しまれた。百貨店の華である催事も、色々仕掛けをした。山下清展は三万人の集客、県外のお客様も多かった。民放とのタイアップで実現したきんさんぎんさんのトークショーは、きんさんが飛行機が駄目で、ぎんさんだけだったが、百才でもかくしゃくとしている姿は感動物であった。百貨店の主力であるミッシーミセスファッションは、地元で展開していたブランドでは明暗がはっきりし、顧客の差が売り上げの差となって出た。

畑中宣彦

 

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・きんさん、ぎんさん100年の旅写真展

開会式であいさつ、その日の夕方のローカルニュースでテレビ報道。

 

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・ぎんさんを囲んで左妻 幸子(故人)、右娘 裕子

 

2014年5月19日

これから、弊社“社長のヒストリー”を公開致します♪ 第一話

 百貨店作りのスタート

私が、現在の、ファッション販売の派遣事業を、行うきっかけとなったのは、かつて、十年近く、宮崎の橘百貨店の社長として、運営していた経験からである。

以前、橘百貨店は、地元の名門百貨店として、多くのお客様に親しまれていたが、倒産。ジャスコ(現イオン)がスポンサーとなって、橘ジャスコの看板で、営業を継続していた。丁度、扇屋ジャスコ取締役商品部長として、出向していた折り、橘百貨店の社長として、建物を取り壊し、新しく百貨店としてデビューさせろ、との指示を受け、急遽宮崎へ。宮崎は、これまでは全く縁が無く、大学時代、演奏旅行で訪問した程度であった。

館内に百店舗入っているテナントの退店交渉、近隣の土地買収交渉、工事期間中の仮店舗の確保、商協調の根回し等々、難題は山積。どうしても、地元に精通しているスタッフが欲しいのだが、それもかなわず、地元商業界の長老に相談。「宮崎では、焼酎を飲み交わして、初めて本音が引き出せ、仲間意識が高まる。合意を得るのはその後だ」とのアドバイス。

毎晩、焼酎を前にしての説得が続いた。この頃、地元の民放で「社長宅訪問」の番組があり、我が家にも訪問。当時、中学生の娘がインタビューに「我が家は母子家庭のようで、夜、パパと食事する事が無い」と言われたのにはまいった。

昭和63年5月、ボンベルタ橘の店名で百貨店がオープン。ここからは、百貨店を軌道に乗せる苦労が始まる。私は、百貨店を良く知って頂くために、多くの場所に顔を出した。特にマスコミとのアプローチは必須で、よく、PRにご協力頂いた。テレビ宮崎の渡辺社長、宮日新聞の南村前専務は、その頃からの付き合いで、今も交流が続いている。感謝。

社員教育にも熱が入った。新規採用が百名近い数になるので、外部のコンサルタント会社を利用して、訓練は続いた。丁度DCブランドが、地方でも脚光を浴びたころで、コムサ、サンエー、アトリエサブ等の人気ブランドを集結したB館は、毎日、大盛況であった。ミッシーミセスブランドは、顧客管理の成就期で優劣がつく傾向にあった。

オープンして4年目で黒字転換、その間二割ほどのブランドが入れ替わったが、地方百貨店は、ブランド力より、個々のスタッフの販売力に負う事が多いと痛感した。この事は、後に、メルス(婦人服専門店)の社長をしている時に、更に強く感じた次第である。

代表取締役 畑中宣彦

次回に続きます。

HN-003
・家族 中・妻幸子(故人) 右・娘裕子
このように夜、外で食事をする事は稀で、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

HN-004
・マスコミ支局長会の飲み会に合流

2014年5月12日

GW中のお知らせです♪

ゴールデンウィーク中のお問合せやご応募頂きました方は、

大変申し訳ございませんが5月7日にご連絡させて頂きます

 

★月10日~15日位のお仕事が、充実してきました。

お気軽にお問合せ下さいませ。

八王子セレオ  本八幡シャポー  柏そごう  聖蹟桜ヶ丘  港南台髙島屋 など

 

★未公開求人もございますので、お気軽にメールやお電話でお問合せ下さい。

info@infarm.co.jp

 

 

 

 

2014年5月2日

GWのお知らせです!

今年のゴールデンウィークですが、本社はカレンダー通りのお休みを頂きます。

4月29日 5月3・4・5・6日 

7日からは通常営業をしております。

 

≪ 即日勤務ご希望の求職者の方へ ≫

ご応募頂きまして、面接~お仕事紹介まで当社では、採用を頂きましたら就業スタートが1週間位のケースもあります。

入店までのスケジュールをクライアントさんに合わせ、セッティング致しますので、ご要望などございましたらお聞かせ下さい。

お問合せなどもお待ちしております。

 

採用教育

 

 

 

 

 

 

 

 

2014年4月25日

東京都江東区永代2丁目13-5
高梨加藤ビル2階

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