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My boss history 第六話
はまゆうコーラスのこと
私とはまゆうコーラスの出会いは、百貨店赴任直後、指揮者の中村先生が、ご挨拶に来られた事に始まる。私は、新しく百貨店を作りにきたと騒がれ、マスコミに度々登場した。その時、同志社グリークラブOB、という事も報道され、同志社OB、音楽関係者の訪問が多かった。
中村先生は旧姓三品さん、私が二回生の時、グリークラブの庶務マネに、その時先生は、京都女子大合唱団の指揮者として大活躍であった。私の二年先輩になる。
両クラブの交流は盛んで、先生に頼まれ、演奏会のチケットをさばいた事も何回かあった。
卒業以来の再開に話がはずみ、おかあさんコーラスの女王はまゆうコーラスの話になり、家内が宮崎に来たら、是非入会してほしいとの話になった。
私が宮崎に来たのは、橘百貨店の株主総会の前日5月12日。そこから住まい探しが始まったが、中々これといった物件に出会えず、不動産屋が、新たに社宅を建てる、という事になった。このため、家内と娘の宮崎入りは完成する8月末になった。
その頃、はまゆうコーラス等県内のおかあさんコーラスでのミニコンサートがあり、初めてはまゆうコーラスを家内と聞きに行き、中村先生を紹介し、その日から家内ははまゆうの一員となった。
家内は元々ピアノをやっていたのだが、金城学院へ行って、グリークラブに所属し、結婚して各地の赴任先のおかあさんコーラスに所属していたので、はまゆうの入会は自然の成り行きであった。
はまゆうは、当時100名位のメンバーで、音楽レベルが髙く、全国的にも一目おかれるコーラス団体であった。
家の近所に何名かのメンバーがいたので、家内がアッシーになっていた。その為、はまゆうに溶け込むのが早かった。
橘百貨店は、宮崎の目抜き通りにあり、はまゆうの練習会場に近いことで、当時、橘百貨店は、はまゆうのメンバーの溜まり場になった。
もちろん、百貨店の良い顧客になって頂いた。はまゆうコーラスの演奏活動は、宮崎だけでなくて、九州一円、全国にまでおよんだ。
声が良く出て、ハーモニーが絶妙、音楽レベルの髙さを実感していたが、曲に応じたパフォーマンスも、表現力が素晴らしく、何よりも、照れ、ためらいが無いプロ根性のすごさに、何時も圧倒され感動を頂いていた。
私達が宮崎を去る年、はまゆうコーラスはニューヨークのカーネギーホールのジャパンデーに出演した。この演奏旅行は、家内にとっても、何物にも替えがたい思い出になったようである。
宮崎を去った後も交流は続き、30周年演奏会には、宮崎まで出向いていた。
5年前の7月に家内は亡くなったが、葬儀には矢野さん、井上さんと、アッシーを務めたお友達も宮崎から来て頂いた。
中村先生と私との交流は、未だ続いている。はまゆう以外のコーラス団体の指導と宮崎県並びに宮崎市の芸術文化協会副会長、県合唱連盟副理事長の要職にあり、超御多忙のようである。
我が家にとって、はまゆうコーラスは宮崎で9年過ごした貴重な証となっている。
畑中宣彦
次回に続きます