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メルスの事

メルスの3年間(H8~10)は、私のイオングループの最後の職場となった。メルスは、婦人服の専門店で、主力ブランドは、メルス、他にカジュアルなトレンドクラブ、ヤング対象のサリーズと三つのブランド(ショップ)で、全国北は、北海道から南は沖縄まで、200有店舗展開していた。上場を目指すという事だったが、赴任してみると基盤が脆弱で、時間がかかりそうな印象であった。元々、若いオフィスレディの通勤着を主体に展開していたメルスが伸び悩み、少し価格ゾーンを下げた、ミッシーカジュアルねらいのトレンドクラブが、積極的に店舗展開をしていた。しかしメルスほどの効率は出ず、コストを下げるため、店長以外は、メイト(アルバイト)で構成していたので、販売力はどうしても弱かった。店舗展開も量販のテナントが圧倒的に多かった。一方メルスは、スタッフは社員でかため、店舗展開は、ルミネ、パルコ等、都心のファッションビルが多く、コストの髙い構造になっていた。

毎週月曜日は、営業部、商品部、合同で前週の商品動向の報告会が行われた。商品部は、現物を用意して、店頭の売筋を報告するのだが、営業部は地区別に商品動向の報告があり、地域間の是正がここで行われた。これとは別に商品部内でも、月間を通じた品揃え計画が、毎週協議されていた。オリジナルが50%位の構成比で、表参道のデザイン事務所と提携して作り込みが成された。香港に事務所もあって、常時2名が駐在していた。現地スタッフも数名いて、主にニットであるが、バイヤーがオーダーした製品の生産管理と香港、中国のメーカー情報の収集、月に一度はバイヤーが行くので、メーカー動向を主な業務としていた。

店頭では、店長を中心に顧客管理がしっかりしていて、有効顧客の多い店ほど、売上が安定していた。店長の力量が売上を左右していたと云える。

この頃から、地方の商店街に出店している店は、厳しいものがあった。2フロアで構成している店は、あらかた2Fが倉庫になっていた。商店街そのものの客の流れが悪くなり、中々フリー客がひろえず、顧客商売中心となっていた。

私の基本スケジュールは、何せ店舗数が多いので、現場中心であった。色々な現場の意見を吸収し、即断するもの、各部長に伝えるものと明確にし、風通しの良い環境作りに留意した。毎週金曜日、土曜日は店巡回にあてて、店長とのミーティングを行った。このペースで、半年で全店をまわり、1年で2回巡回する事が出来た。

全店舗の内、首都圏が50%、地方が50%の店舗はりつけであった。特に地方の場合、情報量が少なく、商品政策だけでなく、メルスがどの方向に進もうとしているのか、直接伝える事が、巡回の大きな目的であった。

青森で話に夢中になり、予定していた列車に乗り遅れ、2時間程次の列車を待った事もあった。又、雪の札幌でお店まで50m位の所を何回もすべって転んで、始めてスノーシューズを買うはめになった事もあった。年に一回、全国店長会議が2月に開催された。200名以上の店長と本部スタッフが一堂に会し、商品、人、運営上の問題等々の協議が1泊2日で行われた。応々にして時間が足りないほど、熱気につつまれた会合であった。海外も香港事務所は、年に一回訪問し、取引先の工場をまわった。又、パリコレ、ミラノコレに合わせて、ファッションツアーを取引先と組んだりもした。丁度この頃は、韓国の勢いが高まっていた時で、どこへ行っても、ハングル語が目についた。

たった三年の赴任であったが、お店、取引先をまわって感じた事は、ファッション販売の基本は商品力と販売力を如何に高めるか、という事であり、専門店の命は、顧客管理をどれだけしっかりしていくかという事を学んだ三年間であった。

ただ残念な事は、私が退任した以後、メルスは同じイオン内の専門店会社ブルーグラスに吸収され、その後、ブルーグラスは、同じイオンの専門店会社コックスに吸収された。

転籍されたスタッフは、その都度退社されたようだが、まだ、何人かはコックスに残っていると聞く。退任前、ようやく上昇の兆しが出てきただけに、残念でならない。

ファッションが大好きな人達の集団であっただけに、メルスを離れた人達は、色々な所で活躍しているようだ。私共の会社でも過去、何名かが訪れて仕事をして頂いた。今でも、新宿伊勢丹で店長をされている人がいる。皆メルスで仕事が出来た事を誇りに思ってがんばってほしいと思う。

畑中宣彦

東京都江東区永代2丁目13-5
高梨加藤ビル2階

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