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扇屋ジャスコ

55年3月、38歳の時千葉に本社をおく扇屋ジャスコに出向した。関東での生活体験は始めてで、千葉県には一度も足を踏み入れた事がなかった。それだけに、この時の異動はかなり緊張したものである。

当時の扇屋ジャスコは、店舗規模が小さく、ヨーカドーやダイエーの攻撃に絶えずさらされていた。私が赴任した時も、柏店の閉店の時で、売り尽くしセールの最終日であった。これもヨーカドーに撃墜された店である。

私は、ここでは衣食住兼ねた、取締役商品部長として仕事をした。食品、住居余暇をみるのは始めてだった。絶えず、品揃え、商品の質価格をお客様の立場からみて、指摘するようにした。アドバイザーは私の家内、一人では見方が片寄るので、PTA、コーラス、近隣と家内の友人何名かも参画して頂いた。丁度、家の近くに天台店があったので、意見を聞くには良い環境であった。

商品部員は、皆非常に高いスキルを持っていた。ただ、それを発揮する場が少ない事が大きなジレンマであった。だから、成田店の開設から、マリンピア葛西と大型店を成功出来たのは、やっと力量が発揮できる場面にめぐりあえたといえよう。成田店の開店は、当時業界でもかなり注目されていた。ダイエーと隣接で、同時決審、相方1万m2ずつ、ダイエーは1年前に開店していた。成田店の開店は、扇屋ジャスコとしても、会社の存亡をかける事業であり、絶対に失敗は許されなかった。心強かったのは、当時扇屋ジャスコの顧問役として、指導に当たってこられたジャスコの植田常務が「この勝負は絶対に負けられない。その為に、ジャスコの特長を出す。ファッションは圧倒的優位に立つスペースをとれ。その分、住、余はスペースを減らす。結果的に負けても仕方ない。食品は、勝つまで血みどろの戦いを続けろ」と勝ち抜く為の明確な方針を打ち出されたことである。この方針に従って、我々は品揃え計画に入った。しかし仕入れ先を回ってみると、色々なところで、ダイエーの圧力があり、品揃えを構築するのに決して安易ではなかった。ジャスコの商品本部の力を借りたり、ありとあらゆる情報を駆使して、勝つ店の構築に入った。負けても良いと云われた住、余もスペースこそダイエーより狭くしたが、その中でどう戦って勝ち抜くか、負けてもよいと思っている部員は誰一人いなかった。

食品は、ダイエーが本部仕入に対し、当時扇屋ジャスコは、地元業者を多用していたので、よりマーケットに近い、品揃えを目指し、価格戦略は商品本部を活用し、輸入物で対応した。そして56年12月16日開店。

当初の方針通り、ファッションの反応はすごかった。当時ジャスコグループの中でも、婦人関連の売上は、成田店が圧倒的一番であった。住、余も食品も五部以上の結果を出し始めて、成田店はダイエーを負かしたのである。店の運営としては、訪日外人客を絶えず意識して、館内アナウンスも英語も使ったり、ホテルとのバスの連携をとって、外人客の呼び込みを図り、順調にすべりだしたのである。

その年のグループ政策発表会で、岡田社長から、成田店の事を紹介され「日本の玄関口の成田で、グループのイメージを高める良い店が出来た」と云われ、参加した扇屋ジャスコの幹部は皆目に涙した。

これまでの苦労が報われた一瞬であった。前例通り、この成田店の成功が大きな自信となり、臼井、マリンピア、葛西と大型店の成功につながっていくのであった。臼井の開設では、地域の有力者との強い絆が成功の後押しになったのだが、これの仕掛けも植田常務であった。

扇屋ジャスコ5年間、植田常務の下で仕事出来た事が、どれだけ成長出来たかと思うと感謝の気持ちでいっぱいである。同時に当時の扇屋ジャスコの社員、とりわけ私が担当していた商品部の諸君には、絶えず厳しい注文をつけても、いつも結果を出してくれていた事に深く感謝したい。彼等の力があって、苦労しながらも扇屋ジャスコの伝統が出来たのである。

今でも年賀状交流の中で、当時の扇屋ジャスコのメンバーが多いのも、共に苦労をかさね、その結果、光明を見出した一体感があるからかもしれない。

 

畑中宣彦

東京都江東区永代2丁目13-5
高梨加藤ビル2階

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