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再び四日市へ

44年ジャスコ発足以来、商品本部に在籍していたが、地域の商品部長にと、50年春、三重地区商品部長として、名古屋へ異動になった。名古屋駅前の第三白河ビルの1フロアを三重商品部、東海商品部が使用。組織としては、大阪の商品本部の配下にあった。だから、上司は相変わらず仏の部長であった。引き継ぎの時、前任の部長から、手をやいているスタッフの話があった。その前に本人とミーティングして、それなりの高いスキルを持っているように見受けたので、もっと責任あるポストにつけさせたら力を発揮すると思い、グループのチーフに任命した。読みは当たって、このグループのチームワークが非常によくなり、業績向上に寄与した。

一年後、当時のNO1店舗四日市店の店長となった。人事の方針として、商品部長、商品本部担当と店長のトレードを今後行うモデルケースとして、私に白羽の矢が立ったようだ。

当時三重事業部の人事課長が私と同期であった。新米店長をサポートする為、この年の大卒新入社員は上から優秀な10名を四日市店にまわしてくれた。丁度この頃、ジャスコと千葉の扇屋が提携合併して、扇屋ジャスコを発足させた。この頃視察団が四日市に来て、歓迎のセレモニーをしていた時、店の総務課長から呼び出しを受け、事務所に戻り、電話をとると、爆弾予告の電話。朝10時から約7時間犯人と電話のやり取りが続き、警察の方もその都度電話口で話を伸ばすようにとのサイン。それでも中々逆探知出来ず、最後は会計研修用の御札を詰めたバッグを防犯課長が店長の代わりに持ていって、犯人に渡したところ御用となり終わった。

女子ハンドボール部を田村紡績からジャスコに移管したのもこの時である。選手の半数が四日市店の配属になった。試合日以外は、午前中は売場に立って、午後は練習。土日はその逆というシフトであった。専用体育館を作って、そこで練習した。練習を2~3回見たが、普段温和な監督だが、練習の時には鬼になっていた。さすがである。

この年のモントリオールオリンピックに日本チームは出場。ジャスコチームから3銘が出場した。女子ハンドボール部は、その後、オリンピックに参加出来ないままになっている。秋の社内運動会は、四日市店は、ハンドボール部の選手の活躍のおかげで、優勝を飾る事が出来た。

四日市店、ジャスコグループNO1店舗であると同時に、地域NO1店舗でもあった。しかも、ジャスコの前身のオカダヤの発祥地だけに色々な方々が御来店された。

読売新聞が中部地区に販社を作って、販路拡大を図ろうとした。迎えうつ、地元の中日、それに朝日、毎日は、対抗策としてジャスコ四日市店のチラシを入れる、入れさせないの攻防が始まった。当時は四日市店のチラシが入る、入らないで、新聞の部数拡大に大きく影響した。それほど、チラシに対する信頼度が高かったのである。それを攻防の具に使われたので、中部地区の新聞戦争に、四日市店は巻き込まれたのである。この問題は、事業部預かりとなり、一定の時間をかけて解決策とした。

このように、店内のマネージメントだけでなく、対外的な事がらに入るケースが多く、結果的にこの体験が、後の宮崎に出向して百貨店づくりをしていくのに非常に役立ったのである。

二年間の四日市店長の後、三重運営部長に就任。四日市店、津店、伊勢店の大型店をみる事になった。この時、津の郊外で二つのショッピングセンターが開設された。何れもジャスコが核となっていた。

これによって、非常に効率の髙かった既存の津店の業績が鈍りだした。四日市店も同様に、郊外に日永カヨーが開設され(ジャスコが核)、徐々に影響が出てきた。

一年後、三重商品部長に赴任した。又、名古屋の事務所に戻ったのである。四年前に比べ、ぐっと成長した商品部員が待っていてくれていた。

ジャスコは、その後も郊外のショッピングセンター開設に積極的、その為、市街地の店舗は影響を受けるが、トータルとして三重県でのジャスコシェアは大幅に上がった。

畑中宣彦

東京都江東区永代2丁目13-5
高梨加藤ビル2階

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