お知らせ

ジャスコスタート! 

44年2月、オカダヤ、フタギ、シロの3社合併で、ジャスコ株式会社が発足した。シロの野田阪神店の四F、1フロアが本社となった。私が27才の時である。商品本部の私の上司は変わらず、鬼から仏になった部長である。オカダヤ、フタギ、シロと今まで異なる企業文化で育ってきた人達が、一堂に介するので、部長始め、トップの皆さんは、一本にまとめるのが大変だったと思う。我々もエリアが急に広がったので、対応に苦慮した。始めのうちは、極力合同で店巡回するよう、スケジュール化されていた。もう一つの苦労は、仕入れ先の絞り込みである。地区の商品部員と協議するのに、ずいぶん時間がかかった。住まいは、最初は西宮の鳴尾、甲子園球場の近くで、巨人阪神戦の時は、町全体がザワザワしていた。球場が近いせいか、良く試合を見に行った。一度巨人阪神戦で、七回の攻撃の前、全員立ち上がるのだが、私一人だけが立ち上がったのには驚いた。巨人サイドなのに、回りは全て阪神ファンだったのである。ゴルフを始めたのもこの時である。ジャスコ発足当初、三菱商事とのつながりが強く、三菱から一人繊維関係の方が来られて、デスクを持っていた。たまたま、私の家の近くにお住まいだったので、休日に良く練習場に通い、手解きをうけた。ある日、三菱商事からジャスコにゴルフコンペの申し出があった。双方10人づつ出すという事で、ジャスコ側は、メンバーが足りなくて、まだ練習場通いだけの私までが参加する事になった。場所は、大神戸カントリークラブ。ウッドは今まで練習してこなかったので、全てアイアンでまわった。スコアは70、70の140これが私のデビュー戦である。その後、猛練習したが、大阪にいた頃は、100位のスコアで留まっていた。

合併一年後の45年、大阪万博が開催された。どのパビリオンも長蛇の列に並び、それぞれのお国自慢に感動したものである。

この大人気を利用しようと、在阪の百貨店が、冬パビリオンの備品を買い付け、終了後大々的にセールを打つ企画をされていた。これを知って、ジャスコも参加すべきという事になって担当は私になった。既にあらかたのパビリオンは、商談が終っていたので、友好企業である三菱未来館を中心に買い付けを進めた。当時のビック店舗の四日市、津、伊勢店で実施したが、思ったほどの結果は出なかった。在阪百貨店は大盛況だったと聞いたが、京阪神以外は、さほど関心がなかったのか、店舗別途に問題があったのか反省しきりであった。三菱未来館で買い付けたソファーセット、天皇陛下がお座りになられましたとの説明があったので、店側にセールストークで使ったらと提案したところ、お客様から説明書が欲しいと云われた。宮内庁が、発行するはずがなく、丁重にお断りした一件もある。世の中は、段々と高度成長の波に乗り、全店共高い売上の伸びをしめしていた。

予算会議では、前年比130%以上組めなかったら、コントローラーから、罪人扱いされていた。野田阪神の本社が手狭になり、商品部は本町に移転した。社宅も鳴尾から南海電鉄の諏訪ノ森に移った。オイルショックの頃である。実家が心配して、トイレットペーパーやティッシュ等送ってきたが、あれは、若干マスコミの過剰放送の影響もあったようだ。まわりを聞いても、さほど不自由はなく、逆に送られてきた物の保管に苦慮していた。

じわじわと低成長時代に移行していった。

この頃、今まで1g750円に固定されていた、金が自由化になるという事で、これを大々的に売ろうと企画をした。商品調達は、商社に依頼。これは大ヒットだった。最初は事業部限定で行われていたが、最後は全事業部が参加、全店の売上を引き上げる要因になった。

実現しなかったが、土地の売買の快哉に使うからとの申し出もあった。他にも金の需要は旺盛で、純金大判が飛ぶように売れた、国税庁の刻印が追いつかず、刻印を偽造したメーカーがあらわれ、大問題になった。各メーカーが生産拠点を海外に置き換えたのもこの頃である。必然的に、海外の買付も増えて来た。この当時、中国はまだ技術的に問題があり、台湾、韓国、香港が中心であった。あの時、商社の紹介で、台湾の洋傘の製造工場の視察を行った。非常に良い製品を作っており、コストも安いので、使えるかなと思って帰国したら、1か月後、商社から商品が入っているが、まだ注文がないと本部あてに連絡があった。注文してないので、どういう事かと調べたら、製品を見ていた時「この当りは日本でも売れますよ」と言った商品群を製品化して商社に送りつけてきた事が分かった。契約書も切ってないので、放っておいても良かったのだが、売れる商品だったので、一部は全店で販売を行った。海外の取引で、言葉の難しさを感じた一件である。また、米国西海岸のショッピングセンタークリニックスも活発に行われた。最初は、仏の部長が団長になったツアー。ファッション全体が大雑把で、あんなのが売れるのか?と不思議な気持ちでSCめぐりをした。

最初のロスアンゼルスのホテルが、ヨーロピアンスタイルのルーズベルトホテル、ハリウッドの近く、そこの朝食でグレープフルーツがでた。スプーンを入れると‘プッシー’と水しぶき。本場の新鮮な果物に感動したものである。娘が生まれたのが、この頃である。

畑中宣彦

東京都江東区永代2丁目13-5
高梨加藤ビル2階

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