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商売人としての第一歩  そして亡き妻との出逢い

 

二年目の春から、四日市婦人洋品売り場の配属となった。翌春、商品部制度が発足し、商販分離の体制となった。この夏、係長に昇格し、婦人洋品、婦人服、服飾雑貨と担当範囲が拡がった。翌年、入社四年目の春、発足したばかりの商品部服飾雑貨担当の方が、急に退職する事になったので、急遽、私がその後任として、商品部員に選出された。近寄り難い先輩ばかりで、毎日が緊張の連続であった。商品部の行動は、店巡間、仕入れ共マイクロバスで、合同で行動していた。仕入は、月2回名古屋と大阪。仕入先の駐車場を借りて、そこで解散、集合していた。私の部門は、アイテムが多く、時間コントロールが大変だった。当時の服飾雑貨は、四日市店が圧倒的に強くここを押さえていえば売上はとれた。今まで自分の居たところなので、その点は非常に恵まれていて、業績は順調に推移し、この年の夏、副参事登用試験に合格し、晴れて課長職となった。この時感じたのは、商品部員は如何にして、仕入れ先とか、売場の方々の信頼を得る努力をすべきかという事である。その頃に、絶えず誠実で横柄な態度を取らない、約束は必ず守る、そして聞き上手になるという事。双方の信頼関係が築く事が出来たら、良い情報がどんどん入ってくる、という事は良く体験した。

当時私は、家内と婚約していた。彼女は、42年金城学院を卒業して、オカダヤに入社。商品部の受付に居た。彼女とのきっかけは、社内報である。私も一時人事に在籍していて、社内報を担当したことがあるが、毎年3月に新入社員歓迎号が出て、職場別に新入社員の紹介がある。かねてから、私の彼女探しに熱心だった同期の仲間が、歓迎号の社内報から、趣味がピアノの彼女をピックアップ。その頃、人事にも同期が居て、良い人物であるとの確認を得て、私にアタックするよう指示したのだ。何人か彼女にアタックしようとする人たちも居たようだが、私が一番早かったようで、彼女の入社早々、二人のお付き合いは始まった。彼女は名古屋生まれ、その後、高校時代まで対馬に居て、金城に入学して、名古屋郊外の冨吉の姉夫婦の家に住んでいた。四日市から近鉄電車一本で30分位のところだったから、よく遊びに行った。彼女の甥が幼稚園生だったので、学童傘のキャラクターについて、よく話をしたものである。当時の商品部は、規律に厳しく、ボスの部長が絶対的君主で、部長の顔色を伺いながら、帰宅したものだった。そんな時に、車の免許を取るべく教習所に通う事になったので大変だった。幸いな事に、一人先輩の方も居たので、勇気を奮って、終業時間がきたら、即教習所に行ったものである。そこまでして取りたかったのは、彼女が既に免許取得者であったからである。男の意地として、どうしても取っておきたかったのである。43年10月28日結婚。仲人は当時社内結婚では皆さん岡田社長(現イオン名誉会長)にお願いしていたので、我々もお願いすることにした。披露宴は、親族友人でまず行われ、その後社内の披露宴が行われた。親族、友人は二回も出るので、大変だったと思う。

新婚旅行は、東北、当時は圧倒的に宮崎が多く、旅行会社のカウンターに座って、新婚旅行と云ったら、まず宮崎のパンフレットをみせられたものである。私はそれに反発して、東北に決めた。ただ、その頃、東北のプランはほとんどなく、すべて自分で決めて、プランにして頂いた。グリークラブの同期が、Hオークラに勤めていたので、式終了後、東京出てオークラで一泊、翌朝、羽田から青森へ、奥入瀬川から十和田湖、花巻温泉、仙台で泊まり、仙台から飛行機で名古屋というプランであった。仙台にもグリークラブの同期が居て、熱心に案内してくれたので、門限が過ぎ、閉め出されてしまったハプニングもあった。このころ、合併で本社を大阪との構想があり、商品部も本社に移るスタッフと、現地に残るスタッフで選別されていた。私は大阪に移り、婦人服飾雑貨の商品本部担当が決まっていた。あの奥部長が、私が結婚して、両親と同居している事を知っていて、「新婚気分を満喫出来るよう、両親から離してあげる」と云われた。こと時から、私の中では、鬼部長が仏の部長に変わっていた。

畑中宣彦

 

東京都江東区永代2丁目13-5
高梨加藤ビル2階

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