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My boss history  第八話

片山健一君のこと

 

宮崎時代、一番思い出に残っているのは、毎日新聞支局長をしていた片山健一君との交流である。

同志社の同級生という親近感もあったが、とにかく波長がよく合った。

前述の如く、二人の最初の出逢いは、同志社大学校友会宮崎支部の総会であった。お互いに宮崎に赴任した早々で、知った顔もなく、二人共所在なげにしていたら、当時支部長の大安産業の伊藤社長が「どちらからですか?」とアプローチしてきた。ここから二人の交流は始まった。OB会終わって、何日か後に、宮崎銀行常務の川崎氏(同志社OB)が、都城支店長から本店営業部長に栄転された。「誰が歓迎会をしてくれるんだ?」との催促に、私と片山君も選ばれたのが二回目の出逢いであった。それ以後は、それぞれ支局、百貨店を訪問しあう仲になり、夜、西橘通りで遅くまでグラスを傾ける仲になった。

お互い宮崎は、始めての赴任のため、始めは人脈を拡げるのが仕事になるのだが、我々は効率良く、私は彼に経済人を紹介して、彼は私に行政の長、並びに文化人を紹介してくれた。彼は毎週月曜日、毎日新聞の宮崎版に「いもがらぺん」のタイトルで、エッセイを書いていた。又、宮崎放送の金曜日の夕方のニュースで、5分間時事論談で出演していた。

「いもがらペン」の主張は、少しでも宮崎を良くしたいという気持ちがヒシヒシと感じられ、読むたびに感動したものだった。後に「いもがらペン」は一冊の本になり、発売される事になった。彼は、馴染みの店に、数十冊単位で持ち込み、カウンターに積み上げられていた。熱心に売り込みはしたが、回収は余り関心がなく、採算はどうだったか、彼も分からないという状態であった。

そこから「僕は経済は駄目、宮崎の文化、国土、歴史を掘り下げていく。君は宮崎の経済、それにファッションの現況を語れ」と役割分担する事になった。このころ、二人には各地から講演の依頼が多くあったのである。

4年間宮崎で仕事をしていて、毎日新聞西部本社経済部長に栄転した。送別会が大変であった。当然私も幹事として、200名集めてMiccのホールで行われた。

彼の指名で、宮崎放送の嘱託アナウンサーと司会をやる事になった。彼曰く、アナウンサーはアドリブが効かないので、そこを何とかと。県知事、宮崎市長、商工会議所会頭、等、豪華な顔ぶれが集まった。彼らしいと思ったのは、宮崎の文化人が多く集まった事である。

福岡に移っても交流は続いたが、日毎に体調を崩しているのが心配であった。

最後に逢ったのは、元教育長柚木崎先生の出版記念パーティーの席であった。立っているのがやっとのようで、別人の如くであった。

そして平成21年8月、家内が亡くなった翌月だから忘れる事はない。あの世に先に行ってしまった。

葬儀には、仕事のからみでどうしても参列出来ず、供花、弔電で対応した。後日奥さんに参列出来なかった事を詫びた。その時、奥さんは、やはり宮崎時代が強烈な印象となって残っていると云われた。まだまだいて欲しかった奴である。

あの世から見て、今の日本、政治、経済、外交、文化、彼はどう見ているのだろう。語る事が出来ないのが残念である。

畑中宣彦

 

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私の送りの時、福岡から来てスピーチしてくれた片山君

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片山君の送別会の時のスナップ

 

 

 

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