お知らせ

片山君のこと

片山健一君(元毎日新聞宮崎支局長)が亡くなって12年になる。今年が13回忌である。

私は、9年間宮崎に赴任していて(1985年S60~1994年H6)最高に良かった事は、彼と出逢った事である。彼の新聞人としての視野の広さ、世の中の動き等々、教えられる事が多かった。

又、彼から紹介された方々は百貨店を経営していくに際して大きな力になって頂ける方々が多かった。

片山君が宮崎に赴任したのは、私と同じ1985年(S60)初夏である。初めての出逢いは、同志社のOB会である同志社宮崎校友同窓会の総会であった。橘百貨店元社長の後藤氏のすすめで出席したものの、知っている人は、取引先の第一ホテルの山口氏だけで、いささか退屈していたところ、会長さんが気をつかって同じような状態でいた毎日新聞支局長の片山君を紹介して下さったのである。二人は名刺交換をして、同志社昭和39年法学部卒の同級生とわかり、多いに盛り上がった。

以後、彼とは良く会い、情報交換をよくしたものである。彼の口癖は「俺は宮崎の文化をみる。君は宮崎の経済、それにファッションをみてくれ」であった。お互いに共通していたのは、共に宮崎が大好きで、少しでも宮崎を良くしたいという気持ちが強かったことかなと思う。

彼は、支局に居座るタイプではなく、絶えず外に出て講演会の講師をしたり、文化人の集まりに参加したり、週1回の宮崎放送のテレビで時事解説したり、超多忙であった。

又、彼は毎週地方版にエッセー「いもがらペン」を連載していた。ある時、地元の鉱脈社のすすめで、それをまとめて単行本として出版する事になった。元々新聞の連載は、地元の知識人からは評判が良く、それがあるから毎日新聞を購読するという人も随分いたようだ。

しかし出版となると大変な覚悟がいるもので、仲間の我々も、百貨店でのアピールやロータリーライオンズ等の色々な団体へのアピールを行った。彼も自分の行きつけの飲み屋で何冊か置かせて頂いたようであった。

問題はこの後。彼の担当していた飲み屋の分がいつになっても清算されない。どの店に置いたのか何冊置いたのか分からず、彼の担当した分は自腹で清算したという。

彼は4年で宮崎を去り、福岡当局の経済部長として栄転した。送別会がMRT会館ミックで行われた。私が彼と一番親しいという事で、橘百貨店が送別会を仕切る事になり、私は宮崎放送のアナウンサーと司会を務めた。

会場は知事、市長を始めとして、400名の方々が集まった。これだけの集めた会は、今までにないと云われた。女性の出席者が多かったが、全て片山君のファン。文化活動の取材を通じて知り合った方々。

その後、福岡や宮崎で彼と会う事はあったが、何故か会う度に体調を悪くしているのが気になった。

2009年(H21)8月、訃報が届いた。勿論葬儀は参列するつもりで、チケットの手配もしたが、突然の仕事絡みで行けなくなってしまった。供花、弔辞を手配し、後日香典に、欠席の非礼を詫びる手紙を送らせて頂いた。

たった4年間の付き合いだったが、死後12年経っても未だ電話がかかってくるような気がしてならない。

 

「紹介したい人が居る。今日時間無いか?」

私の人生にとって、最高の友人であった。

 

東京都江東区永代2丁目13-5
高梨加藤ビル2階

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