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「惜別」・・・Myboss page 

年末、グリークラブの同期の謙介君の訃報を聞いたと思ったら、年明け、宮崎時代の友人の第一ホテルの山口君の訃報が届いた。二人共、私と非常に近いところに居て、仲の良い友人であっただけに、淋しい思いをしている。謙介君はグリークラブ時代、パートがTOPとBASSに別れていたのに、何故か気が合い、絶えず一緒に行動をしていた。夜遅く彼の家を訪れ、寄せ鍋の残りを、二人でよく平らげた。X’masのキャロリング、何台かの車に分乗して何か所かで賛美歌を歌うのだが、皆格好良い車に乗りこんで、謙介君の運転する内職の資材が散乱するワゴン車には、誰も乗り手がなくて、私が助手席を陣取っていたものだ。

卒業後、私は26才で結婚した。新婚旅行は皆宮崎になびくのに反発して東北に行った。

初日は、グリークラブの同期が務めているホテルオークラで、最終は、謙介君が赴任している仙台に決めた。仙台に着いて、彼の案内で観光をした。熱心な案内は夜遅くまで続き、旅館に戻った時は、鍵がかけられていた。謙介君んと二人で大声を出してやっとの想いで開けて頂いた。

平成7年東京での仕事が始まり、当然のことながら、東京クローバークラブで歌うよう、彼の説得を受けた。飲み会にでるだけでもよいと誘われたが、今になって思うと、あの時入っていれば、もう少し彼をサポート出来たのではないかと、残念に思う。

山口君は、私が宮崎に赴任した時、宮崎第一ホテルの営業部長であった。赴任直後に同志社のOB会があって、そこで毎日新聞の支局長故片山君と同様知りあった。

老朽化した建物をスクラップして、新しい百貨店をつくる使命を帯びて赴任しただけに、県、市、商工会議所、商店街の期待は高く、マスコミは連日報道され、町の人の関心も高まっていた。

そんな中で、山口君は早くから百貨店に顔を出していた。私としても、同志社の後輩である事、私自身が宮崎において知縁、血縁がないので、人脈をたどるためには、彼の存在が、非常に有効であった。百貨店開業後も、屋上でビアガーデンを展開したりして、橘百貨店と第一ホテルのつながりが深くなっていったのは、彼の功績でもある。

私が宮崎を離れた後も、年に1~2回宮崎を訪れている。いつも彼が世話役となって、20名近い昔の飲み仲間を集めて、情報交歓会の場を作ってくれていた。家族葬は、1月18日門川で行われたが喪があけたら、仲間2~30人集まって偲ぶ会をやりたいと思っている。

このようなことで、今年は私にとって余り好スタートとは言い難いが、その分、今年こそ、百貨店のファッションが一斉に花を咲かす事が出来るよう、皆で考えながらがんばっていきたいと思っている。

畑中宣彦

東京都江東区永代2丁目13-5
高梨加藤ビル2階

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